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勝手ながら、前回の記事を削除しましたので、あらためて著書の紹介を。

知的障害の支援に関わる方には、ぜひとも読んで頂きたい一冊です。

その支援は、本当に本人のためになっているのか?

本人のため、と思っているが、本当は自分のためなのではないのか?

「親は、愛情によって、子どもの自立を阻む存在である。」

親も、支援に関わる人も、その支援は、本当は誰のためなのか?を考えなければならないと思いました。

さらに、物事への「抵抗読み」をしていきたいと思いました。

発達保障と共生共学については、これまでたくさんの意見に触れてきました。

その上で、私は、共に生きること、インクルーシブ、が大事だと考えています。

ただ、著者がいう共生共学の矛盾点は、まさに私が感じていた視点で、とても重要だと思います。


「わからないこと」を大切に。

「正解」なんてものはなく、「何を選ぶか」だけだから。

自分にとっての「答」をこれからも見つけていこうと思います。



以下、本文より抜粋。

興味持たれた方は、ぜひ読んでみてください!

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序章 知的能力をめぐる問題とは
1章 知的障害のある子どもの教育はどう考えられてきたか
2章 ノーマライゼーションの理念は正確に理解されているか
3章 知的障害のある人を対象にした生涯学習の歴史とねらい
4章 生活の変化から見る生涯学習の意義
5章 生活全体から生涯学習の課題を考える
6章 利用者の「主体」とは
7章 改めてのノーマライゼーションについて考える
終章 残された課題


1章の「知的障害のある子どもの教育はどう考えられてきたか」

共生共学の矛盾点。

①異なる者の共生しか想定していないこと
(カテゴリーを同じにしただけで、内部では強制や排除が絶えず行われている)

②普通学級における障害児の存在の意味づけそのものに無理があること
(「授業に障害児がついていけない」という現状に対して「障害児がいることでクラスが優しくなれる」
というような論点のズレが生まれてくる。
障害のある子どもは、クラスの中で障害のない子どもの「障害者理解」の教材と化してしまう。)

・・・

また、相反すると考えられてきた発達保障論と共生共学論の両論には、共通のふたつの視点が欠如している。と説く。

一つ目は、知的障害のある子ども自身の視点の欠如。

知的障害のある人たちが、地域で生活するために一番必要なことは、
自立する力や一般企業に就職ができ、職場に適応できる力ではなく、
自分に自信をもって生きていくことであると考えている。

二つ目は、俯瞰的な視点の欠如。

障害のある子どもが、その学びをどのように生活や卒業後に活かしていくことができるのかという視点である。
学校でさまざまなことを覚えたとしても、生活の場面で活かすことができないならば、知識の習得のみに留まってしまう。


・・・

フェミニズムの検証から。

「新たな言語」を生み出すということ。

あらゆる文脈は、男性の書き手、男性の主人公、男性の読者という男性中心的に構成されている。

そのため、何かを書こう、読もうとする人は、常に男性中心的な見方を強いられることになる。

ものの見方、その人は男性的思考法によって考え、書き記していることになる。

そのような女性が改めて「女として」読み、書くことは可能であろうか。

ショシャーナ・フェルマンは、このような問題の困難さについて、次のように書いている。

「我々の内に埋め込まれている男性的精神を追い払う」ことが必要であることは私も認めているし、

この主張を推奨したいとも思っている。

しかし、そうは言っても、私たち自身、男性的な精神をすでに内包していて、社会に送り出されるときには、

知らず知らずのうちに「男として読む」ように訓練されてしまっているのではあるまいか?

テクストを支配しているのは男性主人公なので、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと、

私たちは思い込まされてきたのである。

こんな状態で、男性的精神を追い払えと言われても、一体どこからそれを追い出せというのだろうか?

真のフェミニストとは、自分が今読んでいる文脈に男性的中心的書き方を見出して批判する人のことではない。

読みつつある彼女自身のなかで機能している男性主義な言語を振り返り、批判していくことである、とフェルマンは答える。

しかし、既に馴染みがあり、使用している言語、思考法を客観視しながら、新たな「別の言語」を使って語ることは可能なのだろうか。

この問い対して、フェルマンは可能であると答える。

「読む」という行為は、テクスト内に自分が期待していなかったことを見出してしまうという危険をともなう行為であり、

読者としてはその危険に抵抗せずにはいられないのである。

自分自身のイデオロギーや先入観に固執するあまり読むことに対して抵抗するということは、どんなことでも起こり得る。

無自覚に「男として」読んでいる読み手が、「自らに読むことを禁じているもの」をあえて明確にすること、

これが女としての「抵抗読み」の始点となる。

今、読みつつある私自身が必死に目を逸らしているものは何なのか、

私は、何を見、知ってしまうことに対して恐れ避けているのかということを前景化すること、

これがフェルマンにとっての「抵抗読み」ということになるだろう。

・・・

このフェルマンの問いかけの「男性」の部分を「健常者」に置き換えてみると、

いかに健常者の見方や考え方を中心として、社会が成り立っているかを、そっくりと当てはまることができる。

と、著者はいう。

・・・


「抵抗読み」の対象者は、援助者と障害のある人。

援助者こそ、自らの思考や言語を反省的に振り返る必要がある。

障害者の主体性や尊重や対等な関係を掲げつつも、

無意識に、援助者である自分の価値観に従うように強制していることを自覚するだろう。



知的障害のある人たちの支援を行ううえで、重要なことは

「わからなさ」を前にして援助者が援助のわからなさ、もどかしさを認識することであると思われる。

その難題は、援助者自身がどれだけ既存の枠組みに囚われているかという自己認識から、

枠組みの外にいる人たちの言葉にならない声を聞き取るために、重要であるといえよう。

・・・

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2014.12.16 Tue l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲

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