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再読。
約束された場所で

久しぶりにこの本を読もうと思ったのは、

収録されている村上春樹氏と河合隼雄氏との対談を読みたくなったから。

過去にも河合先生の本は何冊か読んだことがあるけれど、

ブログでも書いている通り、「カウンセリング」というものに興味を持ちはじめてから、

あらためて河合先生の本と読むと、なるほどー!と思わずにはいられないことがいっぱいあって。

そういえば、以前、私がカウンセリングを受けていた時(といってもグループアプローチだけど)

その時のカウンセラーさんも河合先生の追っかけをやってた!なんてことをおっしゃっていたなぁ、と。

とにかく今になって、河合隼雄先生の偉大さをひしひしと感じているわけであります。


・・・

河合先生がおっしゃるに、カウンセラーは、

研究者と芸術家と勝負師、この三つがバランスよく存在しないと、本当の一流にならないのだと。

カウンセラーに芸術?勝負?と思われるかもしれない。

例えば、「死にたい」と言われたとき。

その「死にたい」は、本当に死ぬ気なのか?ちょっと言って驚かそうとしておられるのか?

いま思いついたのか? そのへんは、芸術家の判断に近い。なかなか論理的にはいえない。

しかも勝負しなければいけないときがある。

「死にたい」と言ったら、「どうぞ」と言ったほうがいいときがある。

「どうぞ」と言って死なれたら負けです。しかし、勝負に出る。

この勝負師という点を持っていなかったらカウンセリングはできない。

日本のカウンセラーは勝負師が少ないと思っています。

聴くというときに、みんな聴いたらいいと思いすぎて、聴いている中に勝負があることを忘れている人が多いと思う。

そういう態度で聴いている。というと、頭で聞いているのではなく、体まで使って聴いているという感じです。

そういう聴くという態度は、本を読むときにまで出ているのではないかと思う。

「読み」の中に、私が入っていないとだめだということ。

この人がどうかではなく、この人と会っている私はどんな風に感じているのか、どう動いているのか。

例えば、「酒をやめなさい」と言ってもやめる人はいない。

他人に言わず自分に言ってみる。

なかなか言ってもできない私がその人と会っている。

そこをほどよく押さえて全体を読んでいかないと、その人だけ読んで忠告したりしても、

カウンセリングにならない。

・・・

以前読んだ本の中に、こういう風に書かれていて。

至極納得。

これらを踏まえ「聴く」に焦点を当てて「アンダーグラウンド」1.2 を読むと、

今度は、これまたあらためて、春樹さんの凄さを感じてしまったのです。

対談の中で春樹さんが「話を聞く」ことをこんな風におっしゃられている。

僕がこの仕事から得たいちばん貴重な体験は、
話を聞いている相手の人を素直に好きになれるということだったんじゃないかと思います。
これは訓練によるものなのか、あるいはもともとの能力なのかわからないんですが、
じっと話を聞いていると、相手の中に自然に入っていくという感覚があるんです。
巫女=ミディアムみたいな感じで、すうっと向こう側へ入っていけるような気がする。
こういう気持ちってなかなか日常生活では経験できないと思うんです。
熱烈な恋愛でもしないかぎり。
でもこういう作業を続けていて、すこしでも相手のことを理解しよう、相手を好きになろうと強く思っていると、
やはり何か通じ合うところはありますね。

「そうです。我々の仕事もそれと同じです。」と答えられる河合先生。


これって、ものすごいタフじゃなかったら出来ないことだと思うんです。

精神的にも肉体的にも。

この時、私の中で「春樹さんの小説」と「走る春樹さん」というのがものすごく結びついたんですよ。

井戸の中に深くもぐっていける精神力と、

フルマラソンを毎年走るだけの体力を維持しておられる春樹さんだからこそ出来た偉業だと。

他にも、二人の対談は興味深いことばかり。

善悪についても語っておられるのですが、(ここは割愛)

たぶんこのへんのあたりから「1Q84」が生まれていったんだろうなぁ~と。(もう一回読み直そうと思った。)



あと、対談の中にこんな話も出てくる。

河合
人間というのは、いうならば、
煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきたわけです。
しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。
直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるということですね、どうしても。
そういうシステムがいま作られているわけです。
だからそういう「合わない」人たちに対して我々はどう考えていけばいいのか。
それに対してひとつインパクトをもちうるのは芸術とか文学とか、そういうもんですね。
これは非常に大事なものなんですが、でもそれもできない人がいますね。
そういう人たちのためにどうするか。 これはむずかしいです。
ただそう考えていきますと、生活保護みたいなのがあるんやったら、
そういう人たちのために補助金を払うのは当たり前やないかという気がしますね。
補助金をあげますから、まあ楽しく生きてくださいと。

村上
なるほど(笑)

つまり、公的にかどうかはわからないけれど、
社会そのものがそういう受け皿を用意した方がいいんじゃないかということですね。

河合
わけのわからん人は、生活保護なんてけしからん、
そんなところに払う金があったらもっと日本の経済のために使えとか、
そういう人間は落ちていったらええとか、言いますが、そうじゃなくて、
やっぱり社会がちゃんとしてくればくるほど、そういう人たちに対してもお金を払うとか、
やっぱり我々にはそういう義務があるんやないかと思いますね。

村上
地下鉄サリン事件をはじめとして、そういう社会的な犯罪事件を引き起こした体質を別にすれば、
オウム真理教はそういう人たちの受け皿になったんじゃないかという意見もあります。

河合
だからね。それ自体はいい入れ物なんです。でもやはり、いい入れ物のままでは終わらないんです。
あれだけ純粋な、極端な形をとった集団になりますと、問題は必ず起こってきます。
あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、
外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいないと、うまくバランスが取れません。
そうなると、外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。

村上
なるほど。ナチズムが戦争を起こさないわけにはいかなかったのと同じ原理ですね。
膨らめば膨らむほど、中の集約点みたいなところで圧力が強くなって、それを外に向けて吐き出さないと、
それ自体が爆発してしまう。


読みながら、この対談は平成9年に行われたものなので、もう17年も前のことなのに。

社会は何も変わっていないどころか、逆行しているのではないか、もっと生きにくくなってやしないか、とこわくなった。

あともう一つ。

麻原のストーリー性というものに惹かれていった多くの人たちのこと。

わかるところ多いにありやな、と切に思ってしまった。~_~;

ある種のネガティブなところから生まれるストーリー。

ネガティブな故に力を持ってしまう。

そして、ストーリーの持つパワーがその個人を超えてしまう…。


うーーーん…。と考えさせられること多し。

読み直してホント良かった。

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2014.09.18 Thu l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲

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