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初、平野啓一郎。

ずっと読みたいと思いつつ、なかなか手に取れなかった作家さんの

『空白を満たしなさい』を読了。



期待通り!

平野さんが提唱?する「分人論」というのが、とても面白い!と思った。

人は、たくさんの自分を使い分けて生きている。

パートナーといるときの自分、子どもといるときの自分、職場での自分、友人との自分、などなど。

対人関係ごとにいろんな自分をを使いわけている。

例えば、中学や高校の同窓会に行くと、急にその分人が活性化してきて、昔に戻ったようにならないだろうか。

これは、単にキャラクターを演じているとかそういうわけではない。

全部本当の自分。

それなら、家に戻って一人になったとき、

それこそが本当の自分ではないのか?人に合わせている自分ではなくて。

そうだろうか?

人間は、一人になった時も、いつも同じ自分で考えごとをしているのではない。

その時々に違った分人で考えている。誰かと一緒にいた時の分人の余韻、人格の名残のようなもの。


「分人」なるほど。


では、なぜこんな考え方をするのかというと?

それは、人を自殺させないために。

自分を嫌悪して自殺させないために、「分人」という考え方が必要なのだと。



この小説は、自殺した36歳の土屋徹生が生き返るところからはじまる。

三年前に死んだはずの徹生は、自殺した記憶がない。

自分は殺されたんだと思い込む徹生が、犯人をさがしながら事実を知っていく過程が描かれている。


その中で、ゴッホの絵が取り上げられている箇所がとてもわかりやすい。

徹生が訪れる元精神科医で自殺対策のNPOで働く池端のところには、

十数枚ほどのゴッホの自画像の絵ハガキが貼ってある。

≪麦わら帽子のゴッホ≫≪パイプを銜えた包帯のゴッホ≫≪青い服を着て短髪を逆立たせたゴッホ≫etc

徹生に質問する。

「どれが本物のゴッホだと思いますか?」

「贋作があるのですか?ニセモノ?」

「いや、全部本物です。みんなゴッホです。ゴッホが描いたゴッホです。」

「へんに聞えたかもしれませんが、この耳を削ぎ落としたゴッホだけをゴッホだと思っている人も多いんです。

 ゴッホと言えば、これだ、とね。----自殺のせいです。」

 「けど、遺族は、これを遺影にしたいと思いますかね?

 私が知っているフィンセントは、これじゃない。

 みんなは気が狂っていたというけれど、本当のフィンセントは違う。---そうは考えませんか?」


 ゴッホがニセモノの自分なんか描くはずがない。自分の仮面なんか描いても意味がない。

 ゴッホだけじゃない、人間はみんなそう。裏表なんて言うけれど、二重人格どころか、

 つき合う人の数だけいくつも顔を持っている。

 ただ、思考方法だとか、ライフスタイルだとかまで考えだすと、「人格」という言葉は適当ではない。

 それではうまく捉えきれない。

 なので、その対人関係ごとのいろんな自分を<個人>に対して<分人>と呼ぶ。


そして、もう一つの質問。

「この中の、どのゴッホが、どのゴッホを殺したんだと思いますか?」

「どのゴッホが犯人で、どのゴッホが被害者だったのか。」

禅問答のような質問に戸惑いながら徹生は、

≪麦わら帽子のゴッホ≫が、≪包帯のゴッホ≫を殺したのではないか。と答える。

この答えに池端は驚く。

「普通はみんな、逆だと思うんです。この病んだゴッホが、他のまともなゴッホたちを殺してしまったのだ、と。
 
 犯人は、自分で耳を削ぎ落としてしまうような、危険な哀れな狂気のゴッホだと、」

「わたしはいつも、自殺未遂の常習者は、病んだ分人が、健康な分人を傷つけているのだと考えてきたんです。

 わたしだけじゃない、世間の誰もが、おそらくそう思っています。

 病気が、---彼の中に住んでいる病人が、彼自身を傷つけているのだ、と。」

 ---しかし、そう考えると根本的に分からないことが一つあるんです。

 なぜ、病んだ分人は、他の分人たちに対して攻撃的なのか?自分自身の住処である体を、

 どうして自分で壊すようなことをするのか?たまたま一度だけというのではない。

 何度も執拗にです。

 むしろ逆だ、と。

 病んでいない分人たちこそが、病んだ分人を消そうとする。

 病んだ分人に、これ以上苦しめられたくない。だからみんなで結託して消そうとする。



自分をたった一つの個人と考えるのではなく、分人という考え方を持つことで、

何かが起こり、自分が嫌になったとき。

自身を否定するのではなく、「嫌いな分人」という考えを持つようにする。

笑顔でいられる分人、好きな分人を、自分の土台にする。

そうすることで、自殺を回避できるのではないかと平野さんはおっしゃっている。

希死念慮を持ったことがある方には、ぜひ読んでほしい一冊だと思いました。


 
理解を深めるために、平野さんの新書『私とはなにか:個人から分人へ』も読んでみようと思います。
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2014.02.12 Wed l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲

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