上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
『夜と霧』 ヴィクトール・E・フランクル



何度目かのフランクル。

少し前に、蓮池さんの『拉致と決断』を読んだ時に少し触れたけれど、

『夜と霧』は、

「心理学者、強制収容所を体験する」と、題されているように、

精神科医であるフランクルがアウシュヴィッツに収容され、終戦による解放に至るまでの収容体験をつづったもの。


私が最初に読んだのは、旧訳の方で、それには、いくつかの記録写真が掲載されていて、

目をそむけてしまうものだったのですが、新訳の方は、写真が無くなっています。

あの写真を見るのが辛くて読めなかった、という方には、新訳がオススメです。


たんなる強制収容所の体験記ではなく、心理学者として人間を観察し(自らを含めて)、

人間がどのように絶望するのか、また、どのように希望を持つのか、を教えてくれます。


人は、生きているうちに何度か、「生きることの意味」を考えてしまうことがあるのではないでしょうか。

生きている意味を追い求め、その意味が見出せなかったり、充たされないことが、

メンタルヘルスの不調や心の病へと繋がってしまう。


そんな時、フランクルは教えてくれます。

生きる意味についての問いを180度方向転換することだ、と。

生きる意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだと。



生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。

その問いに答えを迫られている。

考え込んだり言辞を弄することによってではなく、

ひとえに行動によって、適切な態度によって、答えは出される。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、

時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

また、それは、けっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであり、

具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。

だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。

それぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。


具体的な運命が人間を苦しめるなら、

苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、

そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。

だれも身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、

ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。



だれも、自分と同じ人生を歩むことはできない。

私は私の人生を引き受けて生きること。それがきっと幸せの一歩なのだと思います。


また、今回読みながら、

あらたに考えてしまったのは、「特定秘密保護法案」のこと。

もし、こんな法律が作られてしまったら、本当に恐ろしいことになるんじゃないのか。

「夜と霧」 このタイトルは、

夜陰に乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現する言い回しです。


訳者の池田さんもあとがきに書かれていますが、

フランクルの思いとはうらはらに、夜と霧はいまだ過去のものではない。


夜と霧が立ち込めることを拒否できるのだろうか?

怖い、と、再読して、新たな怖さを感じてしまったのでした。




スポンサーサイト
2013.11.26 Tue l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲

コメント

コメントの投稿










       

トラックバック

トラックバックURL
→http://keropaki.blog16.fc2.com/tb.php/786-e361c7a5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。