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FBで紹介されていたのを見て、「反省文」がなぜダメなのか?には、

少し感じていることがあったので、さっそく買って読んでみました。

反省

過去に、私も「反省文」を書かされた経験があります。

書かされた、と感じたように、

全く反省していないのに、りっぱな反省文を書いたからです。


それは、短大生のとき。

当時、私が通っていた短大では、学長自らが講義をされる授業がありました。

大胆にも私は、その、学長の授業を2週連続してサボったのです。(汗

その頃は、バイトと遊びに明け暮れていた頃で、友達とノートの貸し借りをしながら、

単位を落とさない程度のやりくりをするのが常でしたから…

まさか、2週連続サボったからといって、呼び出しをくらうとは思ってもおらず。

学長室に呼び出され、こんこんとお説教をされ、反省文を書かされました。

全然反省してないのに。

学長以外の授業では、2週だろうが3週だろうが呼び出されることなんて無かったので、

なんで私だけ?と、納得いかなかったのですが、

友達からは、「あほやなぁ!よりによって、学長の授業をサボるなんて!」と、笑われる始末。

その時、学んだことは、

「反省文」とは、反省したから書くものではなく、

相手が満足いく反省の態度を示すものだということ。

そして、なにがあっても学長の授業だけはサボっちゃいけない!と(笑)



『反省させると犯罪者になります』 というちょっと過激なタイトルの著者は、

私が書いたような「模範的な反省文」に警告を発します。

そして、「反省する」ということが、「真の反省」になっているか?と、問いかけます。



反省とは、させるものではない。

受刑者が心から反省するためには、最初に自分自身が事件を起こした原点をみつめるところから始めなければならない。

事件を起こすに至るには、受刑者の心のなかに犯罪に関わるさまざまな偏った考え方や価値観が深く根付いている。

例えば、暴力を受けて育てば、「力に対して力で対抗する考え方」は、容易に身に付くだろうし、

たとえ裕福な家庭であったとしても、本当に欲しかったもの、

すなわち親の温かい愛情を手にすることができなかった者は、

焼け付くような愛情飢餓を抱きながらも人に素直に甘えることが出来きず、

アルコールや覚せい剤に救いを求めることが少なくない。


真の「反省」に向かうためには

まずは、犯罪を起こすに至った自分自身の内面問題を理解することであり、反省の言葉を繰り返すことではない。

自分の心の奥底にあった否定的感情を引き出し、過去の自分の「心の痛み」と直面し、

誰かに教えられるのではなく、自分自身が内面と向き合った結果として、

自然と心の底から湧きあがってくる「罪の意識」こそ、本当の「反省」なのです。


確かに、その通りだと感じました。

そして、この本は、刑務所の話ではあるのだけれど、

そのまま、子育ての話だと、私も感じました。(FBで紹介の方もそう書かれていました)

犯罪、いじめ、虐待…

結局どんな「問題行動」も、根っこの部分を探ってゆけば、育ってきた環境にたどり着く。

ほとんどの受刑者は、子どものころに「子どもっぽさ」を出せていない、と著者は書かれています。

そもそも、子どもっぽさを出せるには条件がある。

それは、子どもっぽさを受け止めてくれる「大人の存在」。

「無償の愛」のなかで育った子どもは「ありのままの自分」でいいと自分自身を受け入れることができます。

「条件付きの愛」で育った子どもは、条件に応えられないときの自分を「ダメな人間」と思ってしまいます。

問題行動の原点は、「条件付き愛」のなかで子どもが育ってきたことにあると。

まさに、子育ての話なのです。


問題行動が起こった時は、

叱って反省をさせるのではなく、「なぜその行動に至ったか?」を、まわりが考えるチャンスなのです。

わが子と自分を犯罪者にしないために。

ぜひ、たくさんの方に読んでほしいです!
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2013.07.10 Wed l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲

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