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大津の中学2年生自殺の事件、連日の報道を見ていますが、

ほんとうに悲しい。

そして、ひどい。酷すぎますね。


「自殺の練習をさせられていた」

というアンケート結果が隠蔽されていたことに驚いていたら、

今度は、警察が被害届の受領を3度も拒否していたそう。


市は、「いじめと自殺の因果関係は不明」と主張し、

「いつ、誰が、どこでいじめを目撃したのか明らかにするように」と遺族に要求しているそうですが、

そもそも、いじめに『証拠』なんてものは、あるわけが無く。

いじめた側は、いじめたとは絶対に言わないし、

いじめたという意識さえない場合だってある。

まわりは、次にターゲットになるのを恐れて口をつぐむから、

「いじめがあった」と言えるのは、被害者だけで、それが唯一の証拠であるのです。

(これ、『3月のライオン』に描かれてます。ぜひ読んでみてほしい。)



ただ、今回の大津の事件は、これはもう犯罪といっていいものだと思う。

警察が被害届を受領拒否したとか、いじめた側の親のことなどの報道を見ていると、

逃げようがなかったんじゃないか?と思った。

いじめという言葉で終わらせるには、あまりに酷すぎます。


これまでにも、いじめを苦に自殺した子どもは何人もいるけれど、

毎回、「いじめと自殺の因果関係は不明」と、

いじめの実態なるものを明らかにしようとする気配がない。

その態勢こそが、一番問題なのじゃないかな、と思う。

いじめに対して、「徹底的に解明するぞ」という大人の姿勢、学校や社会の体制があれば、

いじめ抑止になるのでは、と思う。


とはいえ…


そもそもいじめって、今の時代に始まったことではなく、

いじめの歴史を見てみると、千年も昔の源氏物語にも出てくるわけで。

例えば、帝の寵愛を一身に受けた桐壺更衣は、まわりの女たちから嫉まれ、

桐壺が参上される時には、通り道の廊下に汚物を撒き散らして着物を台無しにさせたり、

廊下の扉を締めて部屋に閉じ込めたり…。と、相当ないじめがあったわけなんです。

その心労から病気がちになりお亡くなりになられる…。と、

千年も前に、こんなエグイいじめが描かれているわけですから…。

本当に人間の本質って変わらないんですよね。


そんな、いじめに対する解決法なんてものは、現代になっても存在しないわけなんです。

なんとかやり過ごすか、闘うか、逃げるか。

自分でやるしかないんですよ。


ただ、逃げるっていう手段は、誰かが教えてあげなくちゃいけないと思うんです。

大抵の場合、学校がその子にとっての全世界で、逃げる場所なんて無い。と思っているから。

だから、親に出来る唯一のことがあるとしたら、

逃げていいんだよ。逃げる場所はあるんだよ。ということを教えて、

居場所を作ってあげることかもしれないな、と思うのです。


もう6年も前のことになりますが、

ゆうちゃんが小学校を不登校になったとき、

友人が、アンスクーリングガイドブック なるものを渡してくれました。

そのとき初めて、日本にも、

「学校へ行かないことを望んで選択している人がたくさんいる」ことを知りました。

このとき私は、みんなと一緒に学校へ通う  ということに、

自分自身がどれほど捕らわれていたか、ということに気づかされました。



アンスクーリングのことを書いた記事を(随分まえのものですが)

もう一度ここに載せておこうと思います。

実は、この記事を書いたときに、(どこからかたどり着いてくれて)

以前不登校だった、という一人の女の子からメールをもらったのです。

そのメールには、

今は周りの(学校にいってほしいという)期待に答えなければ、と、

なんとか登校しているけど、本当は行きたくないこと。

そして、行きたくない原因は、いじめやまわりの態度が大いに関係しているのに、

不登校である自分だけが責められているように感じてしまう。


というような内容が書かれてありました。



もし、いま、学校へ行きたくなくて苦しんでいる子どもがいたら、

学校だけが全てじゃないよ。逃げていいんだよ。ということを伝えたいです。

そして、その親たちに、

しっかりと子どもの声を聴いてあげて、と言いたい。

ありのまま受け止めて、子どもの声を聴いてあげて欲しいと思う。


どうかもう、今回のような悲しい事件がおこりませんように。


・・・・・・・


アンスクーリングとは?

学びの主体である子どもがその時々の興味・関心・必要性に応じて、

さまざまなリソース(学習資源)を利用しながら学ぶのを親がサポートしていく共育方法。


きっと、アンスクーリングという言葉は聞いた事がなくても、

ホームスクーリングという言葉を耳にした人はいると思うのですが…


アンスクーリングとホームスクーリングの違いは

ホームスクーリングにおいて、

あえて学校のカリキュラムや達成目標を取り入れず、

子どもたちの関心事に任せて一種気ままな生活スタイルをとることを

アンスクーリング(UNSCHOOLING)と呼ばれる場合があります。

アンスクーリングが親の責任放棄と同義語のいわゆる「ほったらかし」と決定的に違うことは、

親が教育について十分に学び熟慮した上で、子どもの成長過程で、

教科学習をあえて絶対的必須条件と考えないことです。



2004年に、日本初の「アンスクーリングガイドブック」なるものが発行されていて、

沢山の人達が、「学校へ行かない事を望んで選択」されています。


興味深いのは、

米の心理学者ラリー博士が「初対面同士の子ども達がどう振舞うか」という実験において、

登校児童とホームスクーラーを比較研究した結果。


「登校児童よりも、ホームスクーラー達の方が協調性・社交性に富んでいる

という意外な結果が出て、学校が社会性を育むのではない」

と証明したこと。


普通の感覚では、

「学校へ行かないで社会性・協調性がどうやって育つのか?」

と考えてしまいます。

でも、アンスクーリングをやってきた子ども達をみていると、

子ども達の社会性・協調性は自然に豊かに育っているというのです。

そもそも、学校での集団生活=社会性・協調性 

と勘違いしている所が間違いなのです。


家庭は、学校のように塀で囲み校門を締め切って監視カメラをつけたりせず、

そのまま社会の中に存在します。

同じ年齢の男女だけを集めてクラス分けし、

そこに指導者として絶対的権力を持った大人が一人いて、

決められた日課を消化するという組織集団は、社会にはあまり存在しません。

学校という場所が、特殊な場所なのです。


とはいえ、私自身は楽しく学校生活を送ってきた子どもの一人だったし、

みんなの中で学ぶ事の大切さも実感しています。

では、それが万人に当てはまるのか?と言えば、それは違っていると思うのです。

ゆうちゃんは、「ご飯を食べない」という身体を張った方法で学校へ行かないという自己主張をしました。

それはもう、何が何でも受け入れるしかありませんでした。

だから、私自身は「学校へいかない」事をネガティブに考えた事はありません。

学校へいかない事がゆうちゃんの選択であり、

今、この時間がゆうちゃんにとって大切な時間だと考えているからです。



全国には「学校へ行かなくちゃならない」と、

不登校を否定的に考えている人達がたくさんいる事もこの本を読んで知りました。

きっと、学校へ行きたくなくて苦しんでいる子ども達は、たくさんいるのだと思います。


「学校だけが全てじゃないよ」

「学校へ行かないという道を歩んでもいいんだよ」

そして、「学校へ行かない事を望んで選択している人がたくさんいるんだよ」という事を、

もっと沢山の人達に知って欲しいな。と思ったのでした。

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2012.07.11 Wed l 今日のゆうちゃん l COM(0) TB(0) l top ▲

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