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『空白を満たしなさい』で描かれていた“分人”というものをもう少し詳しく知ってみたくて。

さっそく読んでみました。

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空白~に限らず、平野さんの小説を読み解くためには、

どうやら「分人主義」というものを知っておかなくちゃいけないようだ。

この新書は、平野さんの小説に感銘を受けられた方たちから、

「分人という思想を、小説を読まない人のために、出来れば新書か何かでエッセンスをまとめてほしい」

との要望から出来あがったそう。

平野さんご自身のエピソードに基づいており、とても読みやすくわかりやすい内容でした。


「個人」を分けられないたった一つのものと考えるのではなく、

「分人」つき合う人の数だけいくつもの顔を持っている、という考え。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。


平野さんの学生時代のエピソードを読みながら、

自分自身の学生時代を照らし合わせてみると、なるほど~!と、納得できることがたくさんあった。

例えば、小中学生の頃、私には、いろんなタイプの友達がいた。

活発でスポーツが得意だった私は、

だいたいいつもクラスの中心にいる目立つグループにいることが多かった。

でもその半面、私には、漫画好きで漫画さえあれば一日中籠っていられるようなオタクな一面があり、

漫画の話を共有できるのは、全く別グループの女の子だった。

また、小学4年生から「空手」を習いはじめたことから、空手の仲間との交流も別物だった。

空手の仲間は、ほとんどが男子だったけれど、

男子の中で、男子みたいにいられる時間が楽しかったし、そこにいることが好きだった。

間違いなく、この3グループでの私の顔はそれぞれ違っていて、相手によって自分を変えていた。


分人という考え方は、これを全て本当の自分である、と認識すること。

なぜ、わざわざ認識しなくちゃならないのかというと、

昨今、対人関係に悩み、自己嫌悪に陥り、自分はダメな人間だと自身を全否定してしまい、

自殺、あるいは自殺未遂をする人が増えてきているから。


私の例えでいうと、もし学校でいじめにあったとしても、

自分が本質的にいじめられる人間だと思う必要などない。

それはあくまで、いじめる人間との関係の問題。

学校での自分が大キライだったとしても、

空手の仲間といる時や、自宅で家族と過ごしている時に、快活で、楽しい自分になれると感じるなら、

その分人こそを足場として、生きる道を考えるべきだと、著者はいう。


そしてさらに、この考えを持つと他者に対する見方が変化する。

自分が、分人の集合体としての存在なら、

必ずやポジティブな分人もネガティブな分人もいる。

イヤな自分を生きているときは、どうしても自己嫌悪に陥ってしまう。

あの人と一緒にいると、どうしてイライラするんだろう?

なんであんなヒドいことを言ってしまったんだろう?

しかし、分人が他者との相互作用によって生じる人格である以上、

ネガティブな分人は、半分は相手のせいなのです。


裏返せば、ポジティブな分人もまた、他者のお陰。

そう思えば、相手へ感謝の気持ちや謙虚さも芽生える。


こんな風に、分人という視点を導入して人間関係をみてみると、

自己分析が可能になり、気持ちがラクになり、生きやすくなる。

自分自身の全部を否定しなくてもよくなるのです。


ちょっと視点を変えて、

分人主義的に恋愛観をみてみると、さらにわかりやすい。

今つきあっている相手が、本当に好きなのかどうか、わからなくなった時には、

逆にこう考えてみるべきである。

「その人と一緒にいる時の自分が好きかどうか」

愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。

そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。



これを読んで、

私が結婚するとき、この人と結婚しよう、と思った理由が、まさにこの通りであることに気がつき驚いた。

なぜこの人と結婚したの?という質問に、

ほとんどの人が、彼の条件や、彼のこんなところが好きだから、と、

相手がどうでであるかを答える中、私だけは、

「この人といる時の自分が一番自然でそのままの自分でいられるから。」と、

相手がどうであるかではなく、私がどうであるか、を答えていたのです。


あなたと一緒にいると、いつも笑顔が絶えなくて、すごく好きな自分(=分人)になれる。

他の人といても、そうはなれなかった。

その好きな自分を、これからの人生で出来るだけ、たくさん生きたい。

だからあなたがいてくれないと困る。



まさにその通り。

一番大事なことを、根本的なところを、私は、ちゃんとわかっていたんだ…。と、

この本を読んで知りました。

そして、ポジティブな私でいさせてくれるあなたに、感謝の気持ちがわいてきました。
(のろけじゃないですから!念のため。笑)




いま、私のまわりには、人間関係、親子関係に問題を抱えている人がたくさんいます。

生きることを辛いと感じている人がいます。

どうか、自分を全否定しないでほしい。

分人という視点をぜひ持ってほしいと思います。

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2014.02.28 Fri l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲
精神科医であり、長年、医療少年院に勤務された岡田先生の一冊。

『母という病』 なんとも衝撃的なタイトル。


この本を読みながら、

友人から言われた言葉を思い出した。

それは、

「なぜいつも“なんとかなる”って思えるの? 」

また、同じように障がいを持つ子どものお母さんからは、

「ゆうちゃんの力を信じるっていうけど、どうしてそう信じることができるの?私は、不安でしょうがない。」と。

これは、私にもよくわからなかった。

逆に、なぜ子どもの持つ力を信じられないの?と、いつも思っていた。

私だって、どうすれば良いのかわからなくなり、迷ったり落ち込んだり悩んだりすることだってある。

でも、最終的にはいつも「なんとかなる」に落ち着く。

誰に何を言われようとも、ゆうちゃんの持つ力を信じよう。なんとかなるさ!という漠然と根拠のない自信だけは、いつも持っていた。笑

まわりに、医師や教師の言葉に振り回されて、落ち込んだり不安になっている人がいたら、
母親が信じてやらないでどうすんのよ。もっと自信持ちや!!と励ましたりもしていた。


なぜ、そんな風に未来を信じられるのか?

その疑問に、この書は答えてくれている。


・・・・・

まったく親に依存するしかなかった幼い頃、

あなたがどんなふうに扱われたかをもっとも表しているのが、

あなたに備わった基本的安心感だ。

基本的安心感とは、世界や自分といったものを無条件に信じることができることだ。

基本的安心感がしっかり備わっている人は、何が起ころうとどうにかなると、

未来を信じることができる。

誰かが助けてくれると、楽観していられる。

基本的安心感が乏しいと、いつも心配ばかりするだけでなく、

自分がここにいるという当たり前のことにさえ、不確かな感覚をもってしまう。

基本的安心感は、ゼロ歳から一、二歳までの間の、まったく記憶にも残らない体験によって形づくられる。


・・・・・


そうなのか。

私には、この基本的安心感があるのだ。

そういえば、昔からどんなことが起ころうとも、いつも「なんとかなるさ」と思ってきた。

このブログのタイトルだってケセラセラ~!だしね。 笑

この今の私の安心感が、たった二歳までに作られているのだ、と言われると、

それはもう自分ではどうしようもないことで、なぜ信じれるのか?と問われても、
信じられるのだからしょうがない。

与えてもらったから与えられる。

これがプラスの連鎖ならマイナス連鎖が虐待となる。

これまでにも何度か書いてきているけれど、

子育てに悩むお母さんたちと話をしていると、

必ず行きつくところが、自分がどう育てられたか?というところになる。

そこを通らずして先へ進めないことを、何度も見てきているので、

私は個人的にとても興味があるのです。

だから、こんな本ばかり手に取るんだろうな、と自己分析しているんですが、

前にに書いた「反省させると犯罪者になります」にも、

“結局どんな「問題行動」も、根っこの部分を探ってゆけば、育ってきた環境にたどり着く。”

と書かれてある。

「無償の愛」のなかで育った子どもは「ありのままの自分」でいいと自分自身を受け入れることができ、

「条件付きの愛」で育った子どもは、条件に応えられないときの自分を「ダメな人間」と思ってしまう。

問題行動の原点は、「条件付き愛」のなかで子どもが育ってきたことにあると。


「三つ子の魂百まで」と言われるけれど、

三つどころか、一つの魂百までといっても差し支えない、と、岡田先生はおっしゃられるのです。

・・・・・

じゃあ、与えてもらえなかった人は、どうすれば良いのか?ということが、この本に書かれてあるのです。

今、なにかしら生きづらさを抱えている人、

もしかして、そこに潜んでいるのは、母という病かもしれない。

まずは気づくことが第一歩だと。

また、物事のメリットとデメリットは大抵背中合わせの関係にあるように、

母という病を抱えることは決してマイナス面だけではない、とも。

苦しさや困難を抱えるがゆえに、磨かれ花開く力もあるのだと。

ジョンレノン、ヘッセ、宮崎駿、曽野綾子 などなど、

母という病が、創造的な力となった人たちのエピソードも登場する。

そして、これ、とても大事だと思うのですが、

母の力だけでは、どうにもならない事だってある。
社会にも責任がある、と。


・・・・・


いま親子関係、ことに母親との関係に悩み、苦しんでいる人たちが増えている。

その端的な表れは、虐待の増加である。

児童相談所が対応するケースの数は、この二十年で四十倍に増加。

しかし、それは大きな山の頂にすぎない。

その裾野では、虐待という自覚もなく、精神的虐待や心理的な支配が日常的に起きている。

境界性パーソナリティ障害や摂食障害、うつや不安障害、

さまざまな依存症に苦しむ人が増加しているが、それらの障害の根底にも、

母親との不安定な愛着が、しばしばかかわっている。

問題の根が深いケースほど、母親との関係がからんでいる。

近年の虐待の増加の背景には、

核家族化やシングルマザーの増加、貧弱な社会的サポートなど、

子育て中で母親にかかるストレスが増大しやすい社会環境にもさることながら、

愛情やかかわり不足の中で育ち、愛着システムが未発達な人が増えていることが影響していると考えられる。

もとをたどれば、その若い母親も、母親から愛されなかったのだ。


もちろん、母親の力だけではどうにもならない部分も大きい。

社会が優しさや余裕を失って、自分を守ることに汲々となり、

融通のきかないルールで杓子定規な対応をしたり、多数派の都合ばかりを優先したり。

不安定で立場の弱いものは、ますます居場所を失っていく。

母親だけに原因があるのではなく、母親や子どもを守れない社会にも、原因があるということだ。

・・・・・


著者が書かれているように、

私もこれらの問題は、愛着システムだけではなく、社会にも多いに問題があると思う。


例えば、「母であるまえに一人の女性でありたい」みたいな風潮なんかもそうじゃないだろうか。

また、最近私が危惧しているのは、

おっぱいをあげながら、携帯をいじっている母親の姿。

これって、すごく恐ろしいことだと思う。

おっぱいをあげる、という行為は、それこそ愛着形成そのもの。

本来なら、愛おしくてたまらないその時間が、

意識半分、心ここにあらずでは、愛着形成を揺るがすことになるのではないか?

そして本当に怖いのは、それに抗えないところ。

私は、ゆうちゃんの幼少期には、まだ携帯というものを持っていなかった。

パソコンも無かったし、24時間誰かと連絡を取る必要もなかった。

でも今は違う。

24時間なにかにだれかにアクセスできるのが当たり前になってしまったから。

私は、あの時代に携帯やパソコンがなくて本当に良かったと思う。

もし、おっぱいをあげている最中に携帯が鳴っても無視出来ただろうか?と思うから。


娘として、母として、いろんなことを考えさせてくれる一冊だった。

もし今、ネガティブな感情に支配されていたり、対人関係に悩んでだりしている人には一読をオススメです。
2014.02.18 Tue l 本・アート・音楽・映画 l COM(2) TB(0) l top ▲
このところ、ずっと下がりっぱなしだったテンションでしたが、

この映画をみて上がりました!!

『クラウド アトラス』

6つの時代を行ったり来たり。

最初は、次々と交錯する時代についていくこと必死。

かなり集中力が必要です。

ちょっとでも油断したら、置いていかれますから。

これって、まさか大風呂敷を広げてあかんようになるタイプのやつか?(ドラマLOSTのように…)

と思ったけど、この映画はちがいます!スゴイです。

ちゃんとまとまってます。しかも、たった3時間で。

トムハンクスは、1人6役やっているんだけど、

その他の俳優さんたちも、特殊メイクで、人種・性別を超えての変身。

この変身っぷりが、スゴイんです。


最後、エンドクレジットで正体ばらしがあって。

「えー!あの人がやってたん!!」と、大盛り上がり。↑

で、観終わったらそのままもう一回観たくなる映画。(実際もう一回見直した)


「いやぁ~、映画って本当にいいですね。」って思わずつぶやきたくなってしまう。

そんな映画です。

ぜひ誰かと一緒に観ることオススメです!!


ちなみに私は、老人ホーム の 「I know I know」のおじいちゃんが最高でした。笑


相関図なんてものがあったので、↓ 

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あーー、はやくレオさまを観に行きたいんだけど、なかなか行けない。><
2014.02.13 Thu l 本・アート・音楽・映画 l COM(2) TB(0) l top ▲
初、平野啓一郎。

ずっと読みたいと思いつつ、なかなか手に取れなかった作家さんの

『空白を満たしなさい』を読了。



期待通り!

平野さんが提唱?する「分人論」というのが、とても面白い!と思った。

人は、たくさんの自分を使い分けて生きている。

パートナーといるときの自分、子どもといるときの自分、職場での自分、友人との自分、などなど。

対人関係ごとにいろんな自分をを使いわけている。

例えば、中学や高校の同窓会に行くと、急にその分人が活性化してきて、昔に戻ったようにならないだろうか。

これは、単にキャラクターを演じているとかそういうわけではない。

全部本当の自分。

それなら、家に戻って一人になったとき、

それこそが本当の自分ではないのか?人に合わせている自分ではなくて。

そうだろうか?

人間は、一人になった時も、いつも同じ自分で考えごとをしているのではない。

その時々に違った分人で考えている。誰かと一緒にいた時の分人の余韻、人格の名残のようなもの。


「分人」なるほど。


では、なぜこんな考え方をするのかというと?

それは、人を自殺させないために。

自分を嫌悪して自殺させないために、「分人」という考え方が必要なのだと。



この小説は、自殺した36歳の土屋徹生が生き返るところからはじまる。

三年前に死んだはずの徹生は、自殺した記憶がない。

自分は殺されたんだと思い込む徹生が、犯人をさがしながら事実を知っていく過程が描かれている。


その中で、ゴッホの絵が取り上げられている箇所がとてもわかりやすい。

徹生が訪れる元精神科医で自殺対策のNPOで働く池端のところには、

十数枚ほどのゴッホの自画像の絵ハガキが貼ってある。

≪麦わら帽子のゴッホ≫≪パイプを銜えた包帯のゴッホ≫≪青い服を着て短髪を逆立たせたゴッホ≫etc

徹生に質問する。

「どれが本物のゴッホだと思いますか?」

「贋作があるのですか?ニセモノ?」

「いや、全部本物です。みんなゴッホです。ゴッホが描いたゴッホです。」

「へんに聞えたかもしれませんが、この耳を削ぎ落としたゴッホだけをゴッホだと思っている人も多いんです。

 ゴッホと言えば、これだ、とね。----自殺のせいです。」

 「けど、遺族は、これを遺影にしたいと思いますかね?

 私が知っているフィンセントは、これじゃない。

 みんなは気が狂っていたというけれど、本当のフィンセントは違う。---そうは考えませんか?」


 ゴッホがニセモノの自分なんか描くはずがない。自分の仮面なんか描いても意味がない。

 ゴッホだけじゃない、人間はみんなそう。裏表なんて言うけれど、二重人格どころか、

 つき合う人の数だけいくつも顔を持っている。

 ただ、思考方法だとか、ライフスタイルだとかまで考えだすと、「人格」という言葉は適当ではない。

 それではうまく捉えきれない。

 なので、その対人関係ごとのいろんな自分を<個人>に対して<分人>と呼ぶ。


そして、もう一つの質問。

「この中の、どのゴッホが、どのゴッホを殺したんだと思いますか?」

「どのゴッホが犯人で、どのゴッホが被害者だったのか。」

禅問答のような質問に戸惑いながら徹生は、

≪麦わら帽子のゴッホ≫が、≪包帯のゴッホ≫を殺したのではないか。と答える。

この答えに池端は驚く。

「普通はみんな、逆だと思うんです。この病んだゴッホが、他のまともなゴッホたちを殺してしまったのだ、と。
 
 犯人は、自分で耳を削ぎ落としてしまうような、危険な哀れな狂気のゴッホだと、」

「わたしはいつも、自殺未遂の常習者は、病んだ分人が、健康な分人を傷つけているのだと考えてきたんです。

 わたしだけじゃない、世間の誰もが、おそらくそう思っています。

 病気が、---彼の中に住んでいる病人が、彼自身を傷つけているのだ、と。」

 ---しかし、そう考えると根本的に分からないことが一つあるんです。

 なぜ、病んだ分人は、他の分人たちに対して攻撃的なのか?自分自身の住処である体を、

 どうして自分で壊すようなことをするのか?たまたま一度だけというのではない。

 何度も執拗にです。

 むしろ逆だ、と。

 病んでいない分人たちこそが、病んだ分人を消そうとする。

 病んだ分人に、これ以上苦しめられたくない。だからみんなで結託して消そうとする。



自分をたった一つの個人と考えるのではなく、分人という考え方を持つことで、

何かが起こり、自分が嫌になったとき。

自身を否定するのではなく、「嫌いな分人」という考えを持つようにする。

笑顔でいられる分人、好きな分人を、自分の土台にする。

そうすることで、自殺を回避できるのではないかと平野さんはおっしゃっている。

希死念慮を持ったことがある方には、ぜひ読んでほしい一冊だと思いました。


 
理解を深めるために、平野さんの新書『私とはなにか:個人から分人へ』も読んでみようと思います。
2014.02.12 Wed l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲
かくも世の中は、虚像と欺瞞に満ち溢れているのでしょうね。


渦中の方が注目されはじめた頃、

私のススメで著書を読んでくれた親友が言った感想は、

「このひと、悪魔や。」

そして、ゆうちゃんとのツーショット写真をみて、

「天使と悪魔にしか見えんわー。」と。

もちろんその時は、笑い話。

どんどんとブレイクされビッグになられる姿を、

彼女は、「悪魔がどんどん大きくなりよるでー。」なんて言って笑っていました。


今回のニュースを知り、おそろしいほどの衝撃はあったものの、

彼女の動物的直感に間違いはなかったんだな、と静観している自分がいました。


さまざまな報道が流れていますが、

もしすべてが虚像だったとしても、私は、誰かを責める気持ちにはなれません。

たくさんの素敵な出会いを与えてもらったことに今も感謝をしていますし、

感動したりドキドキワクワクした気持ちは本物だったんですから。

その私の気持ちまで損なわれたくありません。

愚かな真実を知ることよりも、

なぜ、このような事象がおこったのか? そのことを考え続けていこうと思います。


人間はいつかは死ぬ存在である。

この世に存在するのは有限であり、また置かれた世界は完全なものではない。

どこかに唯一の真理、真の世界があるのではなく、

権力の意志により解釈され、発生した個別の真理、個別の世界があるだけ。

だから認識の数だけ真理は存在する。

そういう意味で、世界は唯一の虚構である。

世の中という不完全な世界で生きていくには、

自分にとって意味のあると信じる道を進むしかない。

生きるとは、

自分が信じることに存在意味を見出し、置かれた位置や立場を確認していく作業なのだから。
2014.02.08 Sat l 今日のゆうちゃん l COM(0) TB(0) l top ▲
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