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映画 『6才のボクが大人になるまで』 観てきました。

一言で説明するなら、『北の国から』 米・映画版。

メイソン君の6才から18才までの成長を、12年かけて、同じ役者さんたちで撮影された映画です。

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6才だった少年の、背が伸び、髪が伸び、声が変わり、ひげが生え、身体的にも精神的にも成長し変化していく姿。

大きな事件が起こるわけでもない、どこにでもいる普通の男の子の成長を描いた映画。

でもね、観ていると、成長するのは子どもだけじゃない、大人だって変化していく(老いていく)ってことを目の当たりにさせられ…。

そのあたりが、なかなかリアルで残酷でした。

ちょっと思ったんだけど、この映画の原題って「BOY HOOD」だから、

イーサン・ホーク演ずる父親に焦点あてて観てもいいんじゃないのかなぁ~と。

お父さんの成長物語でもある。いつまでも少年ではいられない。


それにしても、

たった2時間45分で、違和感を一つも感じることなく、いつの間にか12年の月日が流れるなんて。

凄いと思いませんか?

さりげなく写り込ませてあるゲーム機「X-BOX」やら「Wii」やら。

あるいは、「ハリーポッターの新刊発売イベント」なんかで時代を映す。

そんな風に、とても淡々と時は過ぎていくのです。

あえていえば、じゅん君が語ることもなく、泣き所が作られているわけでもないので、「北の国から」みたいな重い感じが無い。

だからこそ、観る人によってグッとくるシーンが、それぞれにあるような気がします。

私は、やはりメイソン君の姿にゆうちゃんを重ねてみたり。

ただ、メイソン君が巣立ってゆくシーンで、

「私の人生は何だったんだ、あとは葬式だけじゃないか」と嘆く母親の姿を見て、

私に、こんな日は来るのだろうか?と思ったりしました。


『一瞬は、とらえるものではなく、

時間が、私たちをとらえるのだ。』

最後の言葉が、この映画の全てを語っているのだと思いました。
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2015.01.28 Wed l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲
昨年からロールケーキにはまっていて。

週一ペースで焼いていたら、いい加減飽きられていたんですが。(^^;

でも、どうしても思うように焼けなくて、満足いくものが焼きたくて!

今年に入り、一発目に焼いたのがやっと成功!!イエイ!

中味は、りんごのコンポート。

うまくいったので写真あーっぷ!^^




やらなくちゃいけないことが目の前に迫っているんだけれど、

ついついケーキ焼いたり小説に手を出してしまったり、ネットをぼーっとみたりしていたら、

こんなグッドニュースを発見。

http://www.shinchosha.co.jp/murakamisannotokoro

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あぁ、もう、気持ちは村上さんのところ。笑

よせばいいのに、昔の本まで出してきちゃった。



とりあえず、質問考えますっ!!



2015.01.09 Fri l 本・アート・音楽・映画 l COM(4) TB(0) l top ▲
勝手ながら、前回の記事を削除しましたので、あらためて著書の紹介を。

知的障害の支援に関わる方には、ぜひとも読んで頂きたい一冊です。

その支援は、本当に本人のためになっているのか?

本人のため、と思っているが、本当は自分のためなのではないのか?

「親は、愛情によって、子どもの自立を阻む存在である。」

親も、支援に関わる人も、その支援は、本当は誰のためなのか?を考えなければならないと思いました。

さらに、物事への「抵抗読み」をしていきたいと思いました。

発達保障と共生共学については、これまでたくさんの意見に触れてきました。

その上で、私は、共に生きること、インクルーシブ、が大事だと考えています。

ただ、著者がいう共生共学の矛盾点は、まさに私が感じていた視点で、とても重要だと思います。


「わからないこと」を大切に。

「正解」なんてものはなく、「何を選ぶか」だけだから。

自分にとっての「答」をこれからも見つけていこうと思います。



以下、本文より抜粋。

興味持たれた方は、ぜひ読んでみてください!

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序章 知的能力をめぐる問題とは
1章 知的障害のある子どもの教育はどう考えられてきたか
2章 ノーマライゼーションの理念は正確に理解されているか
3章 知的障害のある人を対象にした生涯学習の歴史とねらい
4章 生活の変化から見る生涯学習の意義
5章 生活全体から生涯学習の課題を考える
6章 利用者の「主体」とは
7章 改めてのノーマライゼーションについて考える
終章 残された課題


1章の「知的障害のある子どもの教育はどう考えられてきたか」

共生共学の矛盾点。

①異なる者の共生しか想定していないこと
(カテゴリーを同じにしただけで、内部では強制や排除が絶えず行われている)

②普通学級における障害児の存在の意味づけそのものに無理があること
(「授業に障害児がついていけない」という現状に対して「障害児がいることでクラスが優しくなれる」
というような論点のズレが生まれてくる。
障害のある子どもは、クラスの中で障害のない子どもの「障害者理解」の教材と化してしまう。)

・・・

また、相反すると考えられてきた発達保障論と共生共学論の両論には、共通のふたつの視点が欠如している。と説く。

一つ目は、知的障害のある子ども自身の視点の欠如。

知的障害のある人たちが、地域で生活するために一番必要なことは、
自立する力や一般企業に就職ができ、職場に適応できる力ではなく、
自分に自信をもって生きていくことであると考えている。

二つ目は、俯瞰的な視点の欠如。

障害のある子どもが、その学びをどのように生活や卒業後に活かしていくことができるのかという視点である。
学校でさまざまなことを覚えたとしても、生活の場面で活かすことができないならば、知識の習得のみに留まってしまう。


・・・

フェミニズムの検証から。

「新たな言語」を生み出すということ。

あらゆる文脈は、男性の書き手、男性の主人公、男性の読者という男性中心的に構成されている。

そのため、何かを書こう、読もうとする人は、常に男性中心的な見方を強いられることになる。

ものの見方、その人は男性的思考法によって考え、書き記していることになる。

そのような女性が改めて「女として」読み、書くことは可能であろうか。

ショシャーナ・フェルマンは、このような問題の困難さについて、次のように書いている。

「我々の内に埋め込まれている男性的精神を追い払う」ことが必要であることは私も認めているし、

この主張を推奨したいとも思っている。

しかし、そうは言っても、私たち自身、男性的な精神をすでに内包していて、社会に送り出されるときには、

知らず知らずのうちに「男として読む」ように訓練されてしまっているのではあるまいか?

テクストを支配しているのは男性主人公なので、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと、

私たちは思い込まされてきたのである。

こんな状態で、男性的精神を追い払えと言われても、一体どこからそれを追い出せというのだろうか?

真のフェミニストとは、自分が今読んでいる文脈に男性的中心的書き方を見出して批判する人のことではない。

読みつつある彼女自身のなかで機能している男性主義な言語を振り返り、批判していくことである、とフェルマンは答える。

しかし、既に馴染みがあり、使用している言語、思考法を客観視しながら、新たな「別の言語」を使って語ることは可能なのだろうか。

この問い対して、フェルマンは可能であると答える。

「読む」という行為は、テクスト内に自分が期待していなかったことを見出してしまうという危険をともなう行為であり、

読者としてはその危険に抵抗せずにはいられないのである。

自分自身のイデオロギーや先入観に固執するあまり読むことに対して抵抗するということは、どんなことでも起こり得る。

無自覚に「男として」読んでいる読み手が、「自らに読むことを禁じているもの」をあえて明確にすること、

これが女としての「抵抗読み」の始点となる。

今、読みつつある私自身が必死に目を逸らしているものは何なのか、

私は、何を見、知ってしまうことに対して恐れ避けているのかということを前景化すること、

これがフェルマンにとっての「抵抗読み」ということになるだろう。

・・・

このフェルマンの問いかけの「男性」の部分を「健常者」に置き換えてみると、

いかに健常者の見方や考え方を中心として、社会が成り立っているかを、そっくりと当てはまることができる。

と、著者はいう。

・・・


「抵抗読み」の対象者は、援助者と障害のある人。

援助者こそ、自らの思考や言語を反省的に振り返る必要がある。

障害者の主体性や尊重や対等な関係を掲げつつも、

無意識に、援助者である自分の価値観に従うように強制していることを自覚するだろう。



知的障害のある人たちの支援を行ううえで、重要なことは

「わからなさ」を前にして援助者が援助のわからなさ、もどかしさを認識することであると思われる。

その難題は、援助者自身がどれだけ既存の枠組みに囚われているかという自己認識から、

枠組みの外にいる人たちの言葉にならない声を聞き取るために、重要であるといえよう。

・・・

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2014.12.16 Tue l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲
吉田修一『怒り』読了。

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上・下巻ありますが、あっという間に読んじゃいました。

吉田修一作品は、『パレード』をはじめ心の闇を描いた作品が好きなのですが、

今回は、ちょっと違うんです、闇の部分じゃないんですよ。

上巻のはじまり、八王子の住宅で夫婦が刺殺される。

殺害現場には、血文字で「怒」という文字が残されていた。

逃走を続ける犯人。

読み始めは、事件そのものが解明されていくものだと思い、

「怒」の意味はなんだ?と思いながら読み進めていくと、

どうやらその方向でないことがわかってくる。

あれ?このはなし、、、と思い読了後ググってみたら、

やっぱりそうか!

実際にあった事件(市橋達也の逃亡生活)がモチーフとなっているんです。

ただ焦点が当てられているのは、犯人の心情やら事件そのものではなく、目撃情報の通報者のほう。

市橋の逃亡中、実はたくさんの目撃情報が寄せられていたそうで、

吉田さんは、通報者側に興味を持たれたのらしい。

「街で似た人を見かけたという程度のものではなく、

身近な人間に対して疑念が生まれていく事件の遠景に胸騒ぎを覚えた」
とインタビュー記事にありました。


読みながら思い出したことを。

内容からは少し逸れるんですが、

斑尾でバイトをしていたときのこと。

ほんの数日間ですが、同じホテルで働いていた人が、数ヶ月後、殺人で逮捕されるという出来事があったんです。

その人は、レストランで働いていたのですが、

いつもレストランに入るバイトと揉めている、正直、ちょっと不気味なひとでした。

ある日、レストランに入るバイトが誰もおらず、

売店担当だった私に、おはちがまわってきました。

まぁ別にふつーの人やん、と思い、レストランの仕事を教わっていたのですが、

いきなり怒られ(切れられ)さすがの私も、「なに?このひと?」と思ったことを覚えています。

私が怒られた理由で一番覚えているのは、お料理を順番通りに出さなかったこと。

レストランで出していたお料理は、簡単なコース料理。

ホテルとはいえペンションに近いものだったし、

堅苦しいお料理では全然ない。

お客様は、お子様連れもたくさんいらして、コース料理だけれど、

待ってられへんから全部持ってきてー!と言われる方もいて、

お客様の要望通りに、料理を通したことで怒られたんです。

その人は、以前フランス料理店で働いていたことがあるとかなんとかで。

フォークとナイフの並べ方をよく知らない私を非難し、

そして、あくまでもフランス料理店のマニュアルで接客しようとするんですね。

スキー場のレストランにそんなものを求めるお客さんなんておらず、

従業員だけでなくお客さんとも揉めていたこともあったようでした。

今から考えると、アスペだったのかも? なんて思うのですが。

その人は、殺人事件の容疑者で、スキー場のホテルやペンションを転々としていたらしいのです。

逮捕されたときは別のホテルだったのですが、電話でそのことを聞き、ぞっとしたことを思い出します。

その人とは、到底仲良くなれそうもありませんでしたが、

もし、もっと親しみやすい人だったら?

友達になっていたりなんかしたら?

と想像すると、

なんだかちょっと得体の知れない怖さを感じたのでした。


ただ、吉田修一さんにお願い。

私は、犯人の『怒り』が知りたいです。

血文字で、『怒』 と書かなければいられなかった犯人の気持ち、そっちも描いて下さい‼︎

よろしくお願い致します。笑
2014.12.03 Wed l 本・アート・音楽・映画 l COM(0) TB(0) l top ▲
一気読み。



すごいですわ。この一冊。

「マタニティーブルー」に「産後クライシス」

ネガティブな人が妊娠&出産を経験すると、こんな大変なことになるのかー!

てな、感じで読みました。笑

前に、『困ったココロ』 と、『困ってる人』 が似たような感じ、と書いたことがありますが、

カテゴリー的にはここに入る感じ。『困った出産』 とでも。

でも途中、すごく共感できるところもあり。

『案ずるより産むが易し』って男が言うな!!って、めちゃ共感。笑


・・・
案ずるより産むが易し、という言葉がある。
そしてこの言葉を女がつくり、ひろめたのなら話はわかるけれど、
男発信だったとしたらまじむかつくな、というくらいには、
生むとか案ずるとか易しいとかむずかしいとかに敏感にならざるえないのが、
妊娠&出産を経験をし、そして産後を生きるわたしたちだ。
生むの、ぜんぜん易しくねえよ!案じさせろや! ていうのもこれ、じつにたしかな実感である。
・・・

考えてみれば、これまで「妊娠&出産のネガティブな面」って、ほとんど語られていないし、

出産すると自然に母性が芽生えてきて…と、育児はほぼ母性に頼れているけれど、

母性ってそんな簡単なもんじゃないし、複雑なんよね。


著者が、夫に対して、男という生き物に対して、あるいは社会に対して感じる怒りというのは、

とても納得がいくところだった。

・・・
だいたいさ、夫が家事とか育児とかをする場合、「やってくれてる」って言いかたがあるけれど、
あれっていったい、なんだろう。
百歩譲って、家事は夫が稼いでくる賃金と相殺してもいい。
けれど育児は対等に行うべきでしょう。
「育児をやってくれている」「手伝ってくれている」。そういう言葉を、女性たちがなぜ思わず使ってしまうような、
そんな環境になっているんだろう。
いや、そんなこと疑問に思ってみるまでもなく、こんなのたんなる社会の週間なのだ。
戦後にできあがったなんとなーくの常識が、連鎖しているだけなのだ。

例えば。
夜泣きのときとかも、なんかわたしがいたらないからこうなってる、みたいな感じが勝手にして、
「隣の部屋に行かなきゃ」とか「はやく収めなきゃ」とか「騒いでたらごめんね」みたいな、
どういうわけか、そういうすみません的な、申し訳ないです的な気持ちになってしまうのだ。


「なあ、あべちゃん、私がおむつを替えているときに『ごめんね』みたいな気持ち、持つことってある?」
「いや、とくにない」

じゃあなぜ母親だけがこのような「すみません感」をもってしまうのかというと、
赤ちゃんと母親っていうのは良くも悪くも身体でつながっていたという事実があるからだと思うんだよね。
身体的に、赤ちゃんが自分の一部だったときがあったからなんじゃないかと思う。
・・・


著者は、こんな風に疑問に思ったことを一つ一つ掘り下げて考える。

掘り下げるのが作家の仕事、作家のなせる業なんだろうけれど、いちいちこんなに考えてたらそりゃ大変やろな、とも。笑

著者はいう。

なにかが苦しかったり、悲しかったり不安だったりするとき。
なにが、どのように苦しかったり悲しかったり不安だったりするのかを、
言葉にしてみることって大事なんだなーとあらためて思う。
そうすることで、気づくことがたくさんあるしのだよね。
世の中であたりまえになっている「母親」とか「父親」とか「女」とか「男」とかっていう役割べつ概念を
ひとつひとつ自分なりに検証して、そしてできればふたりで話し合って、とにかく時間をかけてやりとりして、
そこからできるだけ自由になること。
もちろんそれはとてもむずかしいことだけれど、でもやらないよりはずっとまし。
世の中の思い込みから解放されて、自分たちにとっていいあんばいのスタンスをみつけてゆかなければ、
これから何十年もつづいていくだろう育児なんかまじでやってられないと思います、男も女も。まじで。

これは本当にその通りだと思いました。

言葉にすることって大事です、まじで。

ただね。これを読み終えて思い返したんです。

描かれている出産から1歳までの怒涛の子育て期間を過ぎ、

健常児だったら「まま」と呼んでくれて、少しずつ意思の疎通が出来るようになるこの一番かわいいであろう時期に、

コミュニケーションが取れなかった自分の子育てを。

「まま」なんて呼んでもらえないし、名前を呼んでも振り向いてもくれない。

こちらの意思は全く通じない。

外へ出たら勝手に走り出す、公園デビューしても公園を抜け出し木を眺めるゆうちゃん。

あぁ、出産なんかより、あの頃の方がずっとしんどかったなぁ、と。

コミュニケーションが取れないゆうちゃんと、いかにしてコミュニケーションを取るか?

ほんの少しでも興味持ったものを、必死になって一緒に追いかけたよなーと。

でも、それが幸せやったんやなって。かけがえのない時間やったんやな、って。

わたしのところにうまれてきてくれてありがとうゆうちゃん。

そんな気持ちになりました。

きみは赤ちゃん。

ぜひぜひみんな読んでみてー!
2014.12.01 Mon l 本・アート・音楽・映画 l COM(2) TB(0) l top ▲
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